歴史

清光院と本尊薬師如来

清光院住職 菅原 大道

元徳二年(1330)高野山の修験者「聖光」が薬師佛の厨子を負い当地に来て加持祈祷を行ったところ、霊験すこぶるあらたかであったことから、里人はこの薬師佛を崇敬し、修験者聖光の袖を止めて放さなかった。

正慶元年(1332)2月、聖光は村の有力な信徒、由右エ門と信者たちに佛堂の建立を遺託して他界した。
由右エ門は、この村へ残された書故事尊像について信者に相談した末、一字を構え「聖光坊」と号し薬師佛を祀り、さらに里人の間に信仰された。

永正元年(1504)八月弐四日 稲取に火災が起き、この聖光坊も猛火に包まれたが、信者・清光(きよみつ)が猛火を侵して坊に突入し尊像を負い出して自らの別邸に移し安置した。

永正二年(1505)清光はこの邸宅を寄進して、堂舎を建築士薬師佛祀り、林際寺五十八世大琳俊禅師を勘請して中興開山とし、現在の号「清光院」の基となっている。 『本尊薬師如来ハ古来秘佛ト唱ヘ猥リニ開扉セズ若シ強ヒテ開扉スレバ必ズ災害ヲ招ケリ』 と言い伝えられていた。 後に、十四世義林和尚が弘化四年(1847)正月十二日、薬師佛を開扉することとしたがその前日に火災に罹った。 本尊は助け出されたが寺は消失した。このことがあって以来本尊薬師如来は「秘佛」として開扉されることはなかった。

大正十三年(1924)八月八日府県道下田伊東線開通祝賀煙火不発弾のため、九日午前一時炎上、本書を持ち出しただけですべて鳥有に帰した。十六世秦道和尚(弟子・喜一(桂堂)和尚22歳のとき)は直ちに、現在地へ本堂を再建・移転し、今日に至っている。

現在十七世桂堂和尚の回向文だけが残っている。

今般、本堂佛壇の汚れが余りにも醜いため清掃点検したところ、尊像の損傷が著しく佛師に依頼し大営繕を加え旧観に復することが出来た。

なお、この佛像は、当山什宝帳(天保5年調)に【本尊薬師佛ハ行基(天智7〜天平勝宝1・西暦668〜749ノ作ニシテ、釈迦佛ハ弘法大師ノ作ナリ】と、また、十七世桂堂和尚の回向文には【新薬師佛ハ空海(宝亀5~承知2・西暦774~835の作・・・】(豆州蜜門○○)と記されている。
今回の調査でもいずれの年代の仏佛像かは判明できなかったが、奈良時代~平安時代の佛像で、大変貴重な佛像であることが改めて確認できた。